願いの宮とは
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STORY
『願いの宮』開宮ストーリー1
「宗教って何やねん!!」宗教アレルギーの青年時代
私は、江戸末期より代々続いている神道家の家系に生れました。
現在の地へは、大正期に遷座されています。
その大正から昭和初期にかけての全盛期時代、荘厳なお社が建てられ、商売人から歌舞伎界、花柳界にいたるまで幅広い人々の信仰を集め、特に恋愛成就、子宝安産に効くと各地より参拝者がたえなかったそうです。
その後、戦災に遭い、衰退を余儀なくされました。
神道といっても一般の方がイメージしやすい神社神道ではなく、戦前、戦中の日本や神道界を陰で支えてきた教派神道十三派のひとつ「金光教」に属しています。
私は七代目であり、もし宮ではなく、和菓子屋さんであれば、老舗の若旦那と呼ばれていたことでしょう。
私が生れた時は、戦前の全盛期からは程遠い衰退ぶりで、戦災後にとりあえず建てられたお社のまま年月が流れていました。
経済的に余裕があるわけではありませんでしたが、信仰心のある両親の教育のおかげで心豊かに育つことができました。
たとえば物心がつく前から、救急車のサイレンが鳴ると手を合わせて祈るという習慣をつけさせるなど、見ず知らずの人のことを祈ることで、幼少期に宗教家以前の、人間として根本的に大切なことを教わりました。私生活でいえば、勉強はそこそこ、スポーツは何でもでき、友人も多く、どちらかといえば、華やかで目立つポジションで学生生活をエンジョイしていました。
何の悩みもなくすくすくと成長した私でしたが、
唯一、家の仕事のことを話すことはありませんでした。
幼い頃からの教育で信仰心はありましたし、日々、神前で祈る父や参拝者の方々の背中を見て尊いことだなとは感じていました。
しかし、戦後に生まれた宗教が、セクト化された近代的な宗教ばかりで、世間では思想集団のようなイメージで思われているため、戦前からある教派神道でさえも同じように思われている(ブランドイメージが悪い)ところが、華やかでミーハーな路線を歩む私にとって問題となりました。
この教派神道を引っ張っている「黒住教」や「金光教」などは、穏やかでいい宗教だと私は思っています。
宗教といえば、この神様が一番で、他の神はダメだとか、脱会したら不幸になるぞというような強引に囲い込むようなイメージですが、
強引に囲い込むようなことは基本神道なので一切ありません。
もしあるとするならば、そこの神職がただ変わっているだけなのでしょう。
願いの宮は、願いの宮になる以前から、組織の管理などありません。
しかし、世間では勝手なイメージの方が先行し、なかなか理解されることもありません。
また、わざわざ説明したところで、私には関係がないことだと思っていました。
なので、信仰心はもちつつも、「宗教って何やねん!気持ち悪っ!!」という感じで、いつしか宗教のイメージを悪くするような、セクト化された宗教に対してアレルギー反応が出るようになっていきました。もちろん、今でもそんなところはあります。
そんな中、受験生、浪人生活という当時の私にしては大変苦しい時期がやってきました。
曽祖父、祖父と早稲田大学文学部哲学科を出ていることもあり、いつしか私も早稲田へ行って勉強するものだと勝手に思い込んでいたようなところがあります。
家を継げというようなことは両親からは一度も言われたことはありませんでしたが、年配の参拝者の方からは、「ボン」や「若」と呼ばれ、当然継ぐものであるかのように可愛がって下さっていました。
私もいつかは継ぐのだろうとの思いもありましたが、今思えば、とりあえず早稲田へ行って、華やかな業界で働いて、退職してから戻って来てやればいいだろうというような、
家を継ぐことから逃げたい思いでいっぱいだったような気がします。
「えっ?マジで!!」人生のターニングポイント
その浪人生活では、思い通りに人生が進まず、精神的にも追い込まれていたため、誰もいない時を見計らっては神前に座り、静かに祈るような瞑想タイムが自然と増えていきました。
また、試験では小論文があったため、参考にしようとする本もなぜだか宗教的なものばかり選び、
「こんな世界とは、はやく離れたいと思っているのに、何でやろ…。」
と自問自答しつつも、自然と興味がそっちへ向かって行く不思議さを感じていました。
浪人中、私の心を揺さぶる2つの大きな出来事がこの時期にありました。
ひとつは、阪神淡路大震災です。多くの方が亡くなり、ボランティア活動をする方が増えたことは素晴らしいことだと思いましたが、宗教家たちが救援物資を運ぶ活動を熱心にしている姿を見て、ガッカリしたことを覚えています。
「そんなこと誰でもできるやないか!!」これが正直な気持ちでした。
もし医者なら、荷物の運搬は他の人に任せ、ケガ人や病人の治療に専念することでしょう。
宗教家であるならば、苦しんでいる人たちの話に耳を傾け、生きる力を引き出すぐらいの活動をしてほしいという思いでいっぱいになりました。
しかし、私は浪人生であり、自分には関係がない世界のことだと言い聞かせていました。
すると、今度は地下鉄サリン事件が起こりました。
それもオウム真理教という宗教教団の起こした無差別殺人テロでした。
「おいおい。本物の宗教家はいったいどこへ行ってん。」
という嘆きが自分の心の中からまた聞こえてきたのです。
今思えば、私の興味がそちらの方に向きつつあると同時に、神様の方からもこっちへ来い、こっちへ来いと引っ張って下さっていたような気がします。
とはいえ、その選択は、学生生活をエンジョイし、華やかな業界に就職し、人生を謳歌しようと準備をしている私としては到底受け入れることができないものでした。
ましてや、それを受け入れるということは、たとえるならば、華やかな路線を歩んできた私が、スポットライトの当たらない暗闇を歩む人生を選択するようなものです。
「逃げよう。はやく東京へ出よう。」と、はやる気持ちで、受験に挑むこととなりました。
いよいよ明日が、受験という前日、先に早稲田へ入った友人の好意で、家に泊めてもらうことになりました。
苦しかった浪人生活も今日で終わり、明日の試験に全力で挑もうと思っている矢先、夜になって突然、泊めてくれた友人が原因不明の高熱でうなされはじめたのです。
頭を冷やすと、うなされていた声も治まり、こちらも少し寝ようとうとうとしはじめると、またすぐにうめき声が聞こえてきます。結局は、寝ることをあきらめ、朝まで看病することになりました。
最初は、「明日試験やのにどうすんねん。」という焦りでいっぱいになりましたが、ややもすると、明日の試験のことよりも彼の体調の方を優先している自分に気づきました。
そして、その時、暗闇から聞こえてくる彼のうめき声が、何千、何万というような驚くほどたくさんの人々のうめき声に聞こえてきたのです。
また同時に、
「逃げるな、はやく戻って来い。」と神様に呼ばれているようにも感じました。
「そうだ。逃げずに立ち向かおう。必要とされているのなら、必ずここから道がつくのだろう。」
これを機会に進学をやめ、本気で家を継ごうと腹を決めることができました。
この出来事が、今でも私の原動力であり、ターニングポイントになっています。
その時までは、家を継ぐということは、衰退した宮に来られている数少ない年配の参拝者の方々のためにやらなければならないというような、どこか消極的なイメージで考えていました。
しかし、その出来事からは、何千、何万と苦しんでいる方々のお役に立つために家を継がせてもらおう。
またそのためにも私は呼ばれたんだという、期待されている喜びで満たされていました。